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2006年6月 2日 (金)

6月2日: 赤ちゃんの多臓器同時移植手術

かなり前のことになるが、NHKスペシャルを見ていたら、日本人の赤ちゃんがフロリダの大学病院で多臓器同時移植を受けた。その時点では回復中とのことだったが、先日、亡くなった。

数日前、テレビを見ていたら、また米国での臓器移植を希望する赤ちゃんがいるが、1億2千万円にも及ぶ費用が必要で、資金が集まらないとのこと。

この問題、色々と考えさせられる。命というものがかけがいのない貴重品であることに反対できる人は居ない。しかし、どこまで貴重なのか。貴重さに限界は無いのか。

もう一つ重要な問題がある。日本における一つの命と、アフリカにおける一つの命は、本来、同じ重さでなければならないはずなのに、そうなっているか、ということである。もしも1億2千万円を、国境なき医師団にでも寄付すれば、それこそ1万人のこどもの命が救われる可能性がある。

加えて、もう一つ気になるのが、米国だけが突出した形になっている移植医療の産業化である。

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コメント

>命というものがかけがいのない貴重品であることに反対できる人は居ない。しかし、どこまで貴重なのか。貴重さに限界は無いのか。
 この問題提起は少し見方を変えれば、報道する側・それを受ける側においては、「幼い子供のため」という「お涙頂戴」でさえあれば、そこに批判性・批評性を介在させる必要はない、または介在させてはならない。このようになってはいないか、また、大衆心理としてそのような働きが(少なくとも日本では)あるのではないか、ということでもあるように思います。
 その点でも、「日本における一つの命と、アフリカにおける一つの命は、本来、同じ重さでなければならないはずなのに、そうなっているか」という問いかけは、意味を持ちえそうです。
 もちろん場面によっては“黙さざるを得ない”場合も有りえるでしょうが、すべてにおいてそうであっては逆に“思考の不在”という最悪の状況を招きかねないでしょう。
 余談ですが「天命」といったような消極的な観念についても、改めて見つめなおしてみる必要がここには生じているのかもしれません。「経済的勝利」にしか結び付けない現世利益的思想、云々だけを見つめ・運用するならば、それこそ「お金には替えられない」も結局「だからお金で解決しえることはお金で解決する」に回収されてしまうように思えます。むろんこれも程度の問題ではあるのですが。

投稿: 原口 | 2006年6月 3日 (土) 22時57分

原口さま
勇気ある発言をありがとうございます。天命という考え方にも危険な部分があるのですが、現在のように人為的に命を延ばせる時代には、再度、考察すべき重要な言葉のように思います。

投稿: C先生 | 2006年6月 4日 (日) 11時38分

「命の重さ」というものが本質的に等しいかと問われれば、私は「等しい」と答えます。しかし、「命の貴重さ、またその上限は」と問われれば、日本の命とアフリカの命は「貴重さには違いがある」のだと思います。
お金という即物的な尺度で考えると、これは大変いやらしい状況のように思います。しかし、お金というものをとりあえず忘れて見ると、この違いは「生き残るチャンスの差」であるのでしょう。野生動物などでも群によって差があるのは当たり前ですし、日本人の中でも格差はあります。この意味で、しょせん命とは生まれつき不平等なものですし、これを重さというのであれば命の重さには違いがあるものです。
だからと言って不平等を放置せよとは申しませんが、受け入れる必要はあるのかもしれません。

ただひとつ、1億2千万円という「金」を指標に、少女1人の命と、他の1万人の命を天秤にかけるかのようなご発言だけは気になるのですよ(もちろん、そのようなおつもりは無いのでありましょうが)。

坊主の説教のようで恐縮ですが、まずは自分が生きているというのはこのような不平等な競争の中で幸運であったことに感謝を、そして命の不平等さについて考えるきっかけをくれた少女のご冥福をお祈りしたい。

投稿: Tim | 2006年6月 5日 (月) 09時47分

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