6月2日: AERAのバイリンガル脳
先日、環境研究と語学の話をHPで議論したところ、コメントもいただき、また、メールもいただいた。
5月31日発売(?)のAERAが、「バイリンガル脳をつくる」と称する記事を載せている。
「英語で考えることができますか?」という問いが赤字で書かれている。
こんな記述になっている。
「複数の言語で思考する」という感覚が理解できない。例えば、米国人と話すとき、頭の中では、相手の話した英語を日本語に翻訳した上で、意味と適切な返事を日本語で考え、それを英語に翻訳して、口から出すという作業をしている、のではないか。
関西学院大学の山本雅代教授(言語コミュニケーション)によると、「そもそも言語を獲得する幼児と学習する大人では違いが多々ある。仮説もいろいろある。研究者の間で何となく合意が取れているのは、発音については年齢が早いほうが習得に有利ということでしょうか」。
「言語の脳科学」という著書がある東京大学の酒井邦嘉助教授の研究では、言語に必要な脳の部分は、「文章理解」「文法」「単語」「音韻」の4箇所に分かれている。興味深いのは、「省エネ脳」だ。前頭葉の「文法中枢」について、英語が熟達すると少ないエネルギーで活動が済むようになるという。この「省エネ化」こそ、「意識せずに英語がでてくる状態」、つまり「英語で考えて英語で話す」段階に移行したと考えられるのだという。
さらに、「文章理解」と「単語」については、大人でも鍛えればどんどん伸びる。また、「文章理解」というのは日本語と同じ部分を使っている、という。国語が伸びれば英語の文章理解も深まるはずということだ。
首都大学東京大学院・言語科学研究室の尾島司郎客員研究員は、こう言う。「同じ人間の脳が操れるのだから、どの言語も基本的に似ているのです。例えば、日本人が苦手なRとLの発音も、脳は音響的な違いを認識している。でも、そのデータを言語的に処理しない。それを意識化すると違いが分かるようになるのだと考えている」。
C先生:余り偉そうなことを言えるほどのバイリンガルではないが、どうもこのAERAの説明は違うような気がする。
「バイリンガルの人間は、日本語を話しているときには日本語で考えていて、英語で話しているときには英語で考えている」、というのが間違いではないか、と思う。
「考えている状態」というものをどのように定義するかによって多少違うのだが、「脳内で独り言を言っている状態」は考えている状態とは言えないと思う。本当の意味で「考えている状態」とは、「何かを脳内からサーチしている状態」だと思う。自分が何を言いたいのか、それを探し出している。そのとき、本当の言語、すなわち、日本語や英語は使っていない。強いて言えば、あらゆる言語に共通のメタ言語とでも言えるものを使っている。しかも、この言語は、話す速度の数倍の速度で情報処理が可能のようである。
メタ言語の表現能力も、通常の言語と同様、単語数や文法力で決まると思うのだが、その表現能力は、その人の持っている最高レベルの実言語と等しいのではないか。多くの日本人なら、日本語のレベルが最高だから、日本語と同じレベルのメタ言語能力を持っているということになるだろう。
例えば、日本語で7万語が理解でき3万語を操ることが可能で、英語では1万語が理解でき5000語が使えるとしたら、その人のメタ言語は7万語+3万語のレベルということになる。
考えた結果、何を言葉として出したいのか、そのメタ言語(=気持ちといった方が適切か)が見つかったときに、それを「日本語フィルターに通せば日本語」が、そして「英語フィルターに通せば英語」が出てくるような気がする。
ところが、日本人にとって、英語フィルターは日本語フィルターよりも、反応速度も、その表現能力も劣るもので、しばしば英語フィルターが旨く動作しないことが起きる。となると、日本語フィルターがしゃしゃり出てきて、そのメタ言語に相当する日本語の言葉が「頭の中の独り言」として大きく顔を出して居座ってしまう。この状態になると、もう大変。パニックである。この日本語をなんらかの「頭の中にある辞書」を使って英語に直す必要があるからである。この日本語から英語への翻訳に要する脳の作業は、メタ言語を使っているときの脳の使い方と全く異なったものなので、そこで、会話がアワワワワ状態になる。
英会話を実用的に行うためには、この英語フィルターの性能を上げること、これが最大の眼目である。しかし、いくら英語フィルターの性能を上げても、日本語の能力が不十分だと、メタ言語の性能も悪いことになり、それなりの表現とそれなりの理解ができるに留まる。
この英語フィルターの性能を上げることが、酒井先生の言う「省エネ脳」を実現することと同義だろう。その方法だが、まず、英単語、英文法、が必須である。しかも、それだけでは十分ではない。できるだけ多くの英語を音で聞いて、その音としての繋がり方を脳のどこかに蓄積する必要があるものと考えている。そのために、相当高いレベルになっても、英語を聞き続けることが必須のように思える。
ある英会話学校の教授法が変わっているということで、ある方からメールをいただいた。このような教授法である。
http://www.ncc-g.com/page2.html
この理論に完全に同意できる訳ではないが、そのHPにいう「口頭英作文」の練習を繰り返すことによって、単語能力、文法能力は確実に向上するから、これは英語フィルターの性能向上には有効な方法だと考えられる。
以上が、現時点での仮説である。
身近なところに、バイ(トリ、テトラ)リンガル人間がいるので、彼らに聞いてみたいと思う。最近、われわれのチームに入ったタン君は、中国語を数種類、マレーシア語(マレー語)、英語、日本語、インドネシア語(マレー語とほぼ同じらしい)を話す。タイ語はさすがに駄目らしい。彼の頭の中はどうなっているのだろうか。
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コメント
はじめまして。HPとブログをいつも拝見しています。
メタ言語のお話、興味深いと思いました。
私はコロンビアに住み、現地人の夫と基本的に英語で会話しています。
英語は中学に入ってから勉強を始めたもので、留学経験も英会話学校の経験もありません。大学の専攻も英語ではありません。
大学を出てから少し勉強し、ときどき英和翻訳の仕事をしています。
コロンビアはスペイン語圏ですが、スペイン語の「勉強」というものはほとんどしていません。本を数冊買いましたが、どれも冒頭を読んだ程度で、さらに日本にいるときにラジオ講座をたまに聞いた程度です。
コロンビアに来てからもスペイン語クラスなどには通わず、といって社交的な性格でもないので、スペイン語は主にテレビで聞くくらいでした。それもここ4~5年は字幕のものが多いので、英語で聞いてスペイン語字幕を読むことがほとんどです。
今でもしゃべる方は挨拶と買い物くらいしかできませんが、聞く方は映画でもだいたいわかり、本や新聞も多少読めるようになってきました。
読んでいるだけのときは意識しませんが、これを日本語に置き換えようとすると、あれだけ何年も勉強して語彙も文法も知識がたくさんあるはずの英語よりも、スペイン語の方が自然な日本語になるような気がするのです。スペイン語の語彙力がまだまだなので、錯覚かもしれませんが。
先生のお言葉を借りるなら、スペイン語を読みとったものがメタ言語として頭に残り、それを文法的な細部にこだわらずに日本語に戻せるような感覚です。
私はvisual thinkerなので、メタ言語というよりも映像として読みとってまた日本語という言葉に戻すという感じなのですが。
英語の場合、内容を読みとるよりも、まず文法的な細部にこだわってしまい、素直に中身が入ってこないように感じられます。
単純に、スペイン語圏に住んでいてスペイン語の言葉が示す実際の事物を知っているからかもしれませんが。
投稿: Narumi | 2006年6月 3日 (土) 08時40分
「メタ言語」なるものについては、意識/無意識のどちらに分類されるかで扱いが大きく変わってくるという気がします。
メタ言語に対する認識が無意識側に近い者は、論理的思考が言語によって構成されます(普通は母国語になることでしょう)。
英語フィルター、日本語フィルターと言えるほど、メタ言語部分を意識側で認識出来る人間は、一般的には少数派のようです。翻訳が出来る方々はほとんどがこちらの部類なのではとも思いますが。
私はある程度意識側にメタ言語を置いて思考が出来るのですが、思考速度が違うために「思い付きで発言しているようにしか見えない」と言われた経験があります。
言語で思考すると別の視点が拓けることもあり、また言葉に出来ないということもあり、どうもメタ言語レベル=最大実言語レベルとも言い切れないのではないかと思う次第。
投稿: Tim | 2006年6月 5日 (月) 09時17分
先日はC先生からのコメントを頂き、ありがとうございました。
「メタ言語」というお考えをきいて思い出したのですが、小学校時代から長く英語圏に暮らしていた人で「自分は最初からずっと、日本語で考えてそれを英語に訳して話しているつもりでいて、英語で早く話せるようになったのはその変換スピードがはやくなっただけだと思っていたが、ある時自分の日本語が出にくくなっているのに気づき、自分は日本語から英語に変換しているのではなくて英語で考えてるんだ、と思うようになった」という方がいるのですが、これなどは「日本語で考えてた」のではなくて日本語でも英語でもない「メタ言語」で考えていたのだ、と思える好例なのかもしれません。その一方、幼少時代と大学は日本、そのほか英語圏、ドイツ語圏、などにいろんな時期に暮らした人の話で「高校時代はドイツ語圏だったので、何歳になっても論理的な文章はドイツ語が得意。」などという人がいて、単に語彙の問題かとも思う一方で、こういうケースでは「メタ言語」というよりは各国語(とその文化や論理性)をベースとして身に付けられた思考というのがあるようにも思われます。「メタ言語」というものを想定するにしても、アウトプットとして使っている言語の内容に多大な影響を受けるのかもしれません。また、複数の言語を使用する感覚は、文法などをもとに外国語を身につけた場合と、ごく小さい頃から例えば両親が違う言語を話す環境であるなど2つの言語をほぼ同時に同じような環境で見につけた場合にはかなり違うようですが、後者の場合に「メタ言語」がどうなっているのかは、よくわからないところです。
ところで、外国語学習法についてですが、古墳発掘で著名なシュリーマンは多数の外国語を身につけたことでも知られているそうですが、著書である「古代への情熱」によると彼の学習法は、短文を暗記する、作文をしてそれを添削してもらう、単語を暗記する、などであったそうです。作文、という点ではC先生ご紹介のサイトにある方法にも通じるものがありますが、こういう方法を有効であるとする人は多いと思います。つまり、短文を覚える、というのはその言語でよく使う構文のパターンを覚える、ということで、500-1000くらいのパターンを完全に覚えたら今度はそれを使って文章をつくる、自分の言いたいことをできるだけ覚えたパターンを使いながら表現する訓練をおこなうと、直訳的でなくその言語に即した言い方で表現できるといわれます。この、「言いたいことを他言語の表現パターンに変換する」というのが外国語能力の重要な部分なのだろうとおもうのですが、これがC先生のおっしゃる「メタ言語」から外国語への変換、という過程であるようにも感じられます。
投稿: しげみ | 2006年6月 5日 (月) 12時19分
言語の話ですが、挨拶などの定型的な会話と、学問的/技術的内容のようなかなり複雑な思考を必要とするような会話ではかなり異なるのではないでしょうか。
私は外国語はほとんどできない(英語も税関の通過に手間取ることがあるくらい)のですが、挨拶やレストランでのオーダー程度ならいちいち日本語に訳さないで受け答えができます。
こういった状態は、メタ言語への置き換えも作用していない状態、例えるなら脊髄反射に似たような状況なのではないでしょうか。
一方、メタ言語についてですが、これが中間言語なのか、母国語なのか、はたまた外国語(マルチリンガルの場合)なのかは人によって違うのではないですかね。
自分の場合は、おそらく日本語で構成されていると思います。
文章を理解するにも、自分の場合は頭の中で音読している場合が多く、そのため人より読むのは遅いほうです。
ちなみに、SW屋なのでロジック的な思考をする場合は、プログラム言語的というかフローチャート的に考える(条件分岐などを頭の中に思い描く)ことも良くあります。
そして、こういった思考はそれほどスムーズに日本語に置き換えられるわけでもないので、この場合はやはり中間言語ではなくそれぞれ別個のメタ言語で思考していると思います。
と、自分自身の場合を考えてみると、会話している言語に合わせてメタ言語を切り替えるような人も居るのではないかと思います。
#そういう人はマルチリンガルであっても翻訳は不得手でしょう
投稿: B-51 | 2006年6月 5日 (月) 13時14分
もう20数年前ですが「--君に日本語と英語とスペイン語をあげる」という本を読んだことがあります。--君の両親は英語とスペイン語の語学教師で、生まれてから必ず自分の専門語学で話しかけ、日本語は同居する祖母が話したそうです。それで特に問題なく、と言うか優秀な高校生に育ったように記憶している。本の終章に著者と主人公との対話があり「怒るとき、泣くとき」はどの言葉でするか、みたいな会話内容だったように思います。
本の内容はほとんど忘れましたが、時々「--君は今どんな人になったんだろう?」と思うことがあります。
投稿: なぐ | 2006年6月16日 (金) 22時28分