2月26日: HPアップ 話題は「下流志向」
先日来の超長期ビジョン検討会でもっとも話題になるのは、2050年、日本という国は、何をやって食っているのだろうか、といういこと。環境を問題にする市民も、ほぼ解決してしまったローカルリスクにのみ関心があって、グローバルなリスクを知ろうとしない。この強い内向きベクトルと、下流志向は関係があるのか無いのか。これが問題意識だった。
日曜日は、東北大の社会人コースで、ひとりで9:30~17:00までの長時間講義。その後、何名かと食事。「向上心」が非常に高いので快適な時間をすごすことができた。土曜日は、ほぼ1日かけて、NHKの「難問解決ご近所の底力」のビデオどり。これも「向上心」がキーワードのような番組だが、体力消耗。下流志向で生きた方が、体力的には楽かも。
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コメント
お題の本は読んでいないのですが、大枠だけならこちらの記述だけでもほぼカバーできているということなので少し意見を。
全体的に何が言いたいのかいまいち解りませんでした。
まあ、漠然と回顧主義が語られているような感じを受けましたが…
大本の「給与銀行振り込み」の話からして、疑問を感じます。
>そして家庭内で起きたことが、「自分はこんなにも我慢している」ことを武器に他の家族と戦う方法。
ということですが、これは至極自然な行動だと思います。
逆に、これが認められないような社会はいわゆる封建社会であって、「主従の契りを交わしたら例えこの命付きようとも主だけはお守りいたす」ってな具合になってしまいますよね。
まあ、ある意味では封建社会の方が安定するというのは事実でしょうが、安定していれば良いと言うものではないでしょう。
>学級崩壊
次に、上記の不快貨幣によって教育を拒否するのが云々という部分ですが、この点は結果的にある程度同意できます。
(幼い頃の)教育はある程度強制力を行使しないとならないと思います。
少なくとも、社会的な「常識」と呼ばれる部分を確立するまでの教育は有無を言わさず行うべきでしょうね。
義務教育と言う言葉からもそれは当然なのですが、昨今の「体罰禁止」「学校の対面ばかり気にする教育者」「何かあるとすぐに学校に責任を擦り付ける親」という3要素がそれを根底から崩しているように思えます。
ただ、生徒個々のやる気を引き出すような授業の進め方というのも(特に小学校低学年くらいでは)重要だとは思います。
余りにも抽象的過ぎて、自分にとって得になると思えないような内容(歴史の年号をひたすら覚えるとか、数学の公式をひたすら暗記するとか)ではやる気が出ないのは当然でしょうからね。
>ニート
これは単純に親の過保護が原因だと思います。
もちろん、それが出来るだけの経済力が親にあるのもひとつの要因です。
大多数のニートは、親の庇護が受けられなければ嫌でも外に出て働くと思いますよ。
そして、この状況を生んだのは、ほかでもない「総中流志向」を目指した団塊世代(とその当時の国の方針)だと思いますけどね。
サラリーマンの給与が年齢比例であるために、若者は一生懸命働いてもたいした給与が貰えず、親世代はさして重要な役職についているわけでなくてもニートの子供を庇護できる程度の収入が得られる社会構造が最大の原因だと私は思います。
まあ、こういった傾向の是正はなかなか難しいですが、今の傾向が続けば徐々にこうなってゆくのではないでしょうか。
確かに現状は混乱していて、余り良い状況でないのは確かですが、変遷期の混乱なのだと思います。
アメリカほどの階級社会が良いとは思いませんが、やはり努力した人や才能のある人がそれなりに報われる社会(逆に努力しない人はそれなりの報いを受ける社会)というのも重要だと思いますしね。
投稿: B-51 | 2007年2月26日 (月) 12時52分
ちょうど3章まで読んだところですが、これが実態を説明しているようには思えませんでした。
基本的にこの手の「世の中おかしくなっている」という論調にはかみつきたくなる性分なのですが、こういう話をされる先生はだいたい子供のころから優等生で、当時からいた問題児のことなんて記憶にない。だから視野の広くなった今、世の中が悪くなったかのように感じるのです(などという根拠のない憶測と同程度の議論に、この本は思えました)。
教育に市場原理が持ち込まれたからおかしくなっている、ということのようですが、例えば「先生、この授業はなぜ役に立つのですか」なんて疑問は昔からあったし、それに対して「字も書けず計算もできなかったら困るだろう」という利益誘導的な回答も教師達はしていたと思います。ここで書かれているような本質的な変化が起きているわけではないでしょう。
学級崩壊のような現象は確かに最近のことで、変化が起きているのは確かだと思います。それに関しては、テレビやゲームとの相関を指摘した「脳内汚染」(岡田尊司)の方が説得力を感じました。
一方、リスクヘッジの話はなるほどと思いました。最近の傾向としては言語と数字の情報が過信され、コミュニケーションのどろどろした部分の重要性が軽視されている。自己責任の追求が誤りなのではなく、言葉にならない部分・実体験の重要性を忘れないことでリスクヘッジと両立できるのではないでしょうか。
ニートについてはC先生の最後のコメントにつきると思います。
あと、こうした教育現場の問題について、世間に「有無を言わさず教えることも必要」という流れができつつある気がしますが、体罰は通常必要ないし、効果もないと思います。実際問題としては教師・親を問わず手を出さずにきちんと教えるのは根気のいる大変な作業で、体罰が封じられた教育現場でもう一つのラクな道である「無視・放任」に逃げた結果が今の問題だと思います。
投稿: ととちお | 2007年2月27日 (火) 00時04分
> (イノベーションが)起きることの邪魔をしないこと、もしも起きそうな気配があったら、それをそっと見守るということがもっとも重要。イノベーションが起きるような雰囲気をもった場と、起こす可能性の高い人材だけを準備すれば良い。
正に仰る通りです。場と人材は揃えても、(どんな業界でも)イノベーションを阻止するような空気(抵抗勢力?)があります。世の中は常に変化する訳ですから、自らも変わらないと生き残れません。これは生物の進化が証明していると思います。変わらないのは楽ですし、そうしたい気持ちは良く分かるのですが・・・。イノベーションの芽を摘むような場面にしばしば遭遇しては、歯がゆい思いをしております。
投稿: むらせ@DGCbase | 2007年2月27日 (火) 01時12分
皆さん誤解しているんですが、本田由紀さんが指摘する通り"ニート"というまとまった層は存在しません。
http://jinjibu.jp/GuestIntvw.php?act=dtl&id=41
多くは何らかの事情で求職活動が出来なかったり、進学や就職の準備段階にある者です(大体、自宅浪人もニートだし)。しかも、不定期ながら年収が100万円以上ある者もいる。
甘やかすからだ、とか「自己決定フェティシズム」だとかいうのは多くの場合不正確です。
投稿: 半ひきこもり@本郷 | 2007年2月27日 (火) 01時47分
最近活発化している「ニセ科学論」とも関連しますが、「環境は悪化している」と同じで、実証的な数値に基づかない「昔は良かった」論は眉に唾をつける必要があります。内田氏については、不二家にかこつけて最近の日本を論じた雑文を「絶望書店」氏が皮肉たっぷりに批判していました。
http://www.zetubou.com/nikki/date/2007/01/
投稿: 安野 | 2007年2月27日 (火) 07時52分
>体罰は通常必要ないし、効果もないと思います。
失礼ではありますが、ととちおさんは子育ての経験はありますか?
理想と現実と言いますが、子育てはまさにそれを痛感しますよ。
理想論ではもちろん仰る通りなのですが、現実には緊急に言うことを聞かせないとならないケースもありますし、いわゆる「幼児」のうちは行って聞かせるだけで何とかなるような子ばかりではありません。
もちろん、体罰のみに頼るのは間違っているとは思いますが、最終手段としての体罰は必要悪だと私は考えます。
学校教育にしても、怪我や多大な苦痛をを負わせるようなものは別として、廊下に立たせることや皇帝を走らせること、尻を叩いたり軽く拳固を食らわせる程度まで「体罰だ」と言って騒ぎ立てるのはどうかと思います。
まあ、この辺は許容範囲を明確にするのは非常に難しいですし、教師個人の判断にゆだね、問題となった場合はケースバイケースで判断するしかないとは思うのですが、昨今の「行き過ぎた体罰反対」には反対です。
>本田由紀さんが指摘する通り…
リンク先にもあるとおり、ニートの定義自体が曖昧なので、こういった議論は難しいですね。
データについても分類が大雑把過ぎて余り詳しい傾向が解らず、議論の根拠からして薄いというのは同感です。
ただ、「非求職型 無業者」が増えているのは明らかに問題ではないかと思いますが…
また、「求職型 無業者」の増加の中には「選り好みが激しく、ひとつの職場が長続きしない」ケースも含まれますよね。
そういった方が徐々に「非求職型 無業者」になってゆくのだというのもあると思います。
そして、そういった傾向はこれまた問題ですし、それでも生活が何とかなるからそうしてしまうというのもあるのではないでしょうか。
あと、(統計データなどはありませんが感覚的には)自分の部屋に引きこもって本当にまったくと言っていいほど外に出てこないような「真性引き篭り」は明らかに増えたと思いますけどね。
自分の周囲にも2人ほど居ますので…
こういった場合は精神を病んでいるケースも多いと思いますので、単純に「突き放せば良い」とは言えないとは思いますが、半数程度は単なる甘えからきているとも思います。
ちなみに、こういった問題を突き詰めて行くと、「福祉(弱者救済)と向上意欲」という難しい問題に集約されてしまいます。
弱者救済を充実させればさせるほど、「最低限の生活が出来るなら無理して嫌な仕事などしないほうが良い」となってしまうのは人間の性でしょうからね。
かといって、切り捨ててしまうのは自殺者の増加やホームレスの増加、犯罪者の増加といった社会問題も引き起こしてしまいます。
非常に難しい問題です。
投稿: B-51 | 2007年2月28日 (水) 11時52分
>失礼ではありますが、ととちおさんは子育ての経験はありますか?
はい、7歳と4歳、子育て真っ最中です。
立たせる、短時間の正座などは僕も体罰と思っていません(やったことはありません)。5分くらい家から締め出したことはあります(やり方としては失敗だったと思っています)。という勝手な定義をした上で言うのですが、体罰はしたことありません。
本気で叱れば(というかそういうモードがあることを見せておけば)だいたい言うことを聞きます。公衆の場など、緊急に何とかしたい時は「抱えて逃げるの術」を使います。(きちんとルールを教えるのは、そういう時期を過ぎても間に合います)
とはいえ、周囲を見る限りなかなか手を出さずに済ますのは、一般には難しいようです。叩いた場合、「叩かれるまでやる」とか「軽く叩いたくらいではやめない」というインフレが怖いのですが、そういうことはありませんか?実のところ、「とにかく言うことを聞かせる」努力と「叩かずに言うことを聞かせる」努力の差は、思ったほど大きくないと思います。子供の通っている保育所の保育士たちは、大人数を相手にみごとにやっていますよ。
>こういった場合は精神を病んでいるケースも多いと思いますので、単純に「突き放せば良い」とは言えないとは思いますが、半数程度は単なる甘えからきているとも思います。
甘えだとしても、それまでの環境で形成された人格ですから、いまさら突き放して本人たちに全部かぶせるのも酷な気がします。
スウェーデンでは、福祉と低失業率を両立させるのに成功したと聞きます。カギは再就職も解雇もしやすい制度と、社会人教育の充実だそうです(ソース忘れました)数回の転職が当たり前という社会が日本にそのままなじむかどうかはよく分かりませんが。
投稿: ととちお | 2007年2月28日 (水) 22時44分
(得た利益)-(費やした労力)=(成果)
とする等価交換の考え方が蔓延している根本は「想像力の不足」でしょう。
目の前にある物だけで計算すると、(費やした労力)を減らすほどに(成果)が増える事になるが、(労力)を費やす事で得られる経験や信用、人脈など自分に蓄積される形のないものを計上していない。
まあ、こんな事を小学校で説明しても理解できないでしょうが・・・
解決策は
子供にたくさん本を読ませて想像力をつける
形がないものの価値を評価するような社会にする
努力して成功した人を尊重する
(陳腐な意見ですいません)
最近の「ナンバーワンよりオンリーワン」「逃げてもいいんだ」という風潮は下流志向を煽っている気がしてなりません
投稿: k | 2007年3月 1日 (木) 00時27分
とちちおさん
邪推、失礼しました。
以下個別に意見を書かせていただきます。
>本気で叱れば(というかそういうモードがあることを見せておけば)だいたい言うことを聞きます
うちも2人子供が居るのですが、上の子はその通りでうまく行きました。
私自身も当時はそのように考えていました。
しかし、下の子はそうもいかず(要領がいいのかもしれませんね)ある程度叩く(といっても怪我をするような叩き方は当然しませんが)ことが必要となるケースもあります。
今はルールを作って、「3回言っても言うことを聞けないときは(当然言分があれば可能な限り耳は貸しますし、3回目には次は叩くということを警告します)叩く」ということにしています。
#それでも叩かれるまで言うことを聞けない場合はありますが…
最初から「叩くことが前提」の躾をするのは、私も間違っているとは思いますが、最終手段としての体罰はやはり必要ではないでしょうかね。
>体罰のインフレ
これは確かにあると思います。
あまりにも気軽に体罰を使いすぎると、そのような結果になりますし、(周囲を見ている限り)子ども自身も暴力的になるような気はします。
ですから、私はあくまで「体罰は最終手段」だと思います。
>緊急に何とかしたい時は「抱えて逃げるの術」を使います
それができる場合は、その方がいいでしょうね。
叩くとしても、その結果余計に騒がしくなる可能性も充分ありますし。
しかし、乗り物など逃げられない環境もありますので、その場合には(うちの場合ですが)上記の「仏の顔も三度まで」戦法が効果を発揮しています。
>子供の通っている保育所の保育士たちは
うちも最近まで保育園を利用していました。
仰るように保育士さんたちは、けして手は上げませんので、それでも何とかやっていますね。
しかし、それは家庭で最低限の躾ができて居ればこそという面もあると思います。
実際、明らかに躾ができていないと思うような子は、卒園するまでまったく同じ調子でした。
保育士さん達もその子にはほとほと手を焼いていたようで、時には隔離が必要なこともあったようです。
保育園では、まあ危険なことになりさえしなければ、多少言うことを聞かなくても問題ないって部分もあると思いますしね。
>甘えだとしても、それまでの環境で形成された人格ですから、いまさら突き放して本人たちに全部かぶせるのも酷な気がします
これを言い出すときりが無いと思いますよ。
例えば、快楽殺人犯だって、その人格は周囲の環境によって構築されたと考えることができるでしょう。
だからといって、罪を償わなくても良いのか?という話になってしまいます。
精神を病んでいるのでない限り、大多数の人間は「切羽詰れば何とかする」可能性は高いと思いますし、成人しているなら自分のとった行動の結果が自分自身に降りかかるのは仕方の無いことでしょう。
そういった部分をあまりにも過保護にするのは社会全体の衰退を招く結果にもなりかねません。
>スウェーデン
http://members.at.infoseek.co.jp/stockholm_sweden/welfare/korei.fukusi/index.html
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/5e5b6928ce3bd69a246f11fa406b1ad6
http://homepage2.nifty.com/ikaruga/new_page_100.htm
こんな実情もあるようです。
#一番上のページは些かマイナス面を強調しすぎな感じであはありますが
まあ、彼の国にもそれなりのマイナスポイントはあるわけで、けして「楽園」なわけではありません。
もちろん、見習うべき点は大いにあるでしょうが、高福祉が必ずしも優れているというわけではないと思いますが。
ちなみに、スウェーデン型の失業者対策は「休職型 無業者」でないと受けれらないわけで、いわゆる「真性引き篭もり」まではカバーしていないはずです。(最低限の生活保障はあるかもですが)
投稿: b-51 | 2007年3月 1日 (木) 13時29分
すみません、誤変換を訂正させてください。
誤:スウェーデン型の失業者対策は「休職型 無業者」でないと…
正:スウェーデン型の失業者対策は「求職型 無業者」でないと…
です。
投稿: b-51 | 2007年3月 1日 (木) 13時35分
やっぱり下の子の方が大変ですか。これは一般的な傾向なんでしょうかねえ。
環境という点から見ても、人間活動のうちで戦争は環境負荷の最も高い部類でしょう。「自分が正しいと思ったら相手をやっつけてよい」という教育を子供が受けている限り、世の中から戦争をなくすのは不可能です。世の中引きこもりだらけになっても、戦争がなくなるならそのほうが環境にいいかも?
>例えば、快楽殺人犯だって、その人格は周囲の環境によって構築されたと考えることができるでしょう。だからといって、罪を償わなくても良いのか?という話になってしまいます。
仕事しない場合の手当ての方が給料より高い、といった逆転現象がない限り、多少手当てをもらったところで、仕事がなかったり他人との交流がなかったりする点で「甘え」に対する代償は払うことになると思います。
例えば、b-51さんが「根気よくしつけるべきなのに、叩いて済ますなんて甘えている」と言われたら、「正論かも知れないけどそんなこと言われたって…」という気分になるのではないでしょうか。職を探す気が起きない人も、「甘えてるのはわかってるけど…」という気分なのだと思います。
表現力不足でニュアンスを伝える自信がないですが、言いたいことは、「引きこもっている人が特別なわけではなく、いま普通に働いている人だって、ちょっとした運命のいたずらでそうなっていたかも知れない。その差は紙一重なのでは」ということです。
投稿: ととちお | 2007年3月 1日 (木) 23時38分
>「自分が正しいと思ったら相手をやっつけてよい」という教育を子供が受けている限り、世の中から戦争をなくすのは不可能です。
関係ないでしょう。どんなにいい教育を受けていても、餓死に直面すれば必ず何割かの人間は食料を巡って殺し合いを始めます。逆に満腹していれば、極々一部の人間を除いて、争ったりしません。
まあアメリカ型の戦争は減るかもしれませんが、しかしブッシュが体罰を受けて育ったとも思えないんですが。
>実際問題としては教師・親を問わず手を出さずにきちんと教えるのは根気のいる大変な作業で、体罰が封じられた教育現場でもう一つのラクな道である「無視・放任」に逃げた結果が今の問題だと思います。
と言うより、行政、国民、マスコミ、保護者、教育学者等々が、「体罰」を封じて、「教師・親を問わず手を出さずにきちんと教えるのは根気のいる大変な作業」を教育現場に強制しながら、十分な予算や人員を与えず、教師等の過重労働で現場に全負担をおっかぶせて済ませようとした結果でしょう。体罰禁止(に限らず教育の「改善」は)は国民一人当たりの教育費○万円増加させて教育の質を維持or国民負担増ない代わりに教育の質の低下のどちらかを選択することであるという意識が必要とされているのでしょう。
関西の医療の中心地で医療崩壊が起こったようですが(↓URL)、同じ構図で、医療の質の向上を求めながら、報酬は増やさず現場の医師の負担増で済ませようとした結果でしょうね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070301-00000044-mai-soci
投稿: X | 2007年3月 2日 (金) 01時38分
>やっぱり下の子の方が大変ですか。これは一般的な傾向なんでしょうかねえ。
周囲に例外は多少居ますが、こんな傾向は確かにあるんじゃないでしょうかね。
うちの子供を見ている限りでは、下の子は最初から上の子との競争があるために「我が強くなる」傾向があるのではないかと思います。
>「自分が正しいと思ったら相手をやっつけてよい」という教育を子供が受けている限り、世の中から戦争をなくすのは不可能です。
戦争と直結させることは無理があると言うのはXさんと同じです。
戦争まで行かないところで、「体罰を与えると最終的に暴力的な行動に訴える=殴り合いの喧嘩をするような子供に育つ」という可能性はあるとは思います。
しかし、このことでもいくつかの点で世間一般の考え方には異を唱えたいと思っています。
・暴力的な喧嘩はすべて禁止すべきものか?
小さいうちにまったく喧嘩をした事の無いような子供でも、押さえ切れないほどの怒りを感じれば最終的に暴力に走る可能性は充分あると思います。
そのときに、喧嘩の経験がまったく無いと「無意識の手加減」も出来ません。
どこまでやると「危険」なのかの経験が無いためです。
幼い頃に(兄弟などを含めて)何度か喧嘩をしていれば、自分だって殴られたりけられたりするわけで、ある程度加減がわかると思います。
最近「いきなり凶器を持ち出す」ような子供はおそらくそれまで喧嘩をした経験が無いのではないでしょうか。
・対等な立場と対等でない立場と言うものがある
これをきちんと教えることは非常に大事だと思います。
最近の子供たちは「親も先生も自分と対等だ」と思っている節があります。
もちろん、子供の意見を尊重することは大事ですが、それでも小学生くらいまでは「親や教師の最終決定は絶対である」とわからせなくてはならないでしょう。
そのためにも、「最終的には体罰もありうる」ことは必要だと思います。
逆に子供同士は対等な立場ですから、意見の相違がある場合「自分が絶対正しい」ことは有り得ません。
それもあわせてきちんと教えれば「安直に暴力に訴える」ことにはならないでしょう。
・理不尽な権力/暴力でも力は力
上と関連しますが、親や教師の決定だって間違っていることは有り得ますね。
それを理由に「最終手段でも体罰は良くない」という意見も聞きます。
しかし、それは実社会に出たってあることです。
会社では上司の決定は絶対ですし、警察などの命令も同じです。
それらが必ずしも正しいとは限りませんが、それでも「一時的には」従わねばなりません。
幼い頃からこういった経験をしていれば、「一時的には従ったけどやっぱり納得いかない」というような場合にどうするかも経験的に解ってくるでしょう。
例えば、母親からしかられたけど納得いかない場合なら父親にも相談するとか、教師の言い分に納得いかないなら両親や別の教師に相談するとかです。
#実社会では、会社>さらに上の上司など、警察>検察や裁判所といったように対応します
・警察機構や軍隊の存在意義を知る
実社会では警察は拳銃などを持っていますし、国は軍隊を保有しています。
これは「最終手段としては暴力も必要である」ことを示しています。
必要悪ではあってもやはり必要なわけで、最終手段としての体罰までを否定するとこういったものが「間違っている」と写ってしまいます。
もちろん、軍隊不要論を唱える人たちも居ますが、そういう人たちでも警察が要らないとはいいませんね。
これは完全に矛盾しています。
#詳しく語ると長くなるのでやめておきますが
>仕事しない場合の手当ての方が給料より高い、といった逆転現象がない限り…
その人が望む生活レベルによるでしょうが、PCとネットがあれば良いような人も多く居ますからね。
ネットゲームに嵌った挙句、会社に来なくなってしまった人も身近に居ました。
#こういう技術の進歩も原因の一部にはなっていると思います
もちろん、最低限の生活保障は必要だと思いますが、親が現役の場合は親元に居れば衣食住には困りませんからね。
こういう状況であれば、「嫌な仕事を我慢してやるくらいなら、家にこもってネットゲームに没頭していたほうが幸せだ」という人も少なくないでしょう。
#もちろん将来の不安は常にあるわけですが
こういったタイプの人たちは、もう少し突き放せばいやいやながらも仕事はすると思うんですよね。
もちろん、社会的にこういった層が問題とならない程度の数ならば、個人の問題として放置すれば良いでしょうがね。
#話の発端として社会問題化しているという前提での話ですから
投稿: B-51 | 2007年3月 2日 (金) 11時30分
>Xさん
個人レベルの殺し合いと戦争はまた区別する必要がありそうです。満腹なのに争っている人が結構目立つような、気のせいなのか…現場の過重労働説は、学校に関してはそういう面も大きいでしょうね。そこを踏まえずに「ラクしてる」なんて言ったら教師の皆さんに叱られそうです。一方、家庭ではどうなのでしょう。父親の長時間労働で母親の負担が増えた、電化製品の普及で家事負担は減った、両方の見方がありますが…
>b-51さん
対等な立場での喧嘩は、これも体罰とは違います。人によってはそういう経験が生きるかもしれません(結局、この「人によって」が大事で、個々の子供を見て考えないといないので、一概に体罰が必要とか不要なんて議論も無意味かもしれないのですが)。でも、「いきなり凶器を持ち出す」子供を減らそうとすれば、「計画的に凶器を使う」子供が何倍も増えそう、というのが僕の感覚です。
「親や教師の最終決定は絶対である」から体罰までは飛躍があると思います。小学校時代は体罰を使う先生も使わない先生もいましたが、みんな怖かったし、生徒も言うことを聞いていました。「実社会に出たってあること」の部分も、上司や警察がいきなり暴力をふるうわけではない(ふるったらそれこそ問題)ですから、体罰の話とは違うと思います。警察や軍隊が武力を行使するのは、「お前は話し合ってもわからない人間」という認定をするということですから、教育しなきゃいけない立場の人がそんな認定をあっさりしてしまっていいのか、という問題があります。
非求職型無業者の話は、よく考えたら僕ももともと小さな政府派で、過剰な福祉には疑問を持っていたのでした。お互いに視線の先が違っているような気がします。「突き放せば仕事を始める」タイプでない人が多いのか少ないのか、というところで食い違っているのでは。これ以上は、実情を把握していないと何ともいえませんね。
投稿: ととちお | 2007年3月 2日 (金) 22時47分
>子供にたくさん本を読ませて想像力をつける
よく聞く意見で、本を読ませることには賛成ですが、
むしろ逆なのでは?と考える事があります。
過多な情報を取捨選択する上で、何をどういったところで今を重要視するし、そうすれば過多な情報で順番をつければ将来は順位が低くなります。
本の中の人物は、物語なら正直者やまじめなものは被害者で、加害者に手落ちがなければ逆転は無理、偉人伝は基本的に所謂一般とは違う人間、皆とは違う逸脱行動をしている。
下手に小賢くなれば、状況が変わればその状況に乗れると考えがえるのはやむをえない気もします。
それ以上の想像力、というかもしれませんが・・・想像力の平均値って夢と同意語で痛みを伴わないような・・・
ただ、昔から変わったか?といえば違う気がします。
昔から蟻の社会と同じでまじめに働く一部の人と追随するひと、そしてサボりの比率は変わらず、クローズアップする場所が変わっただけのように思います。
パーセントの変化に関してはそれを算出する式や、調査範囲が変わったというケースが多く数パーセントの変化に一喜一憂するのも危険。ただし楽観していてもてこ入れが間に合わなくなりますが。
昨今の金属盗難事件も、モラルの低下が謳われますが、昔からあったことで、一般人でも大量に持ち出せる位の道具が揃うくらい豊かになった証拠じゃないかなとも思います(国外犯罪者は他人の国という意識があるから別として)
投稿: z | 2007年3月 3日 (土) 21時39分
とちちおさん
>親や教師の最終決定は絶対である」から体罰までは飛躍があると思います。
「絶対である」ことの裏づけには「実力行使」が必要だということです。
罰則規定の無い法律には強制力がほとんど無いのと同じことで、「最終的には」体罰があり得るというのが必要だという意見です。
軍事力と同じで必要悪ですから、使わないで済ませるのが一番理想的ではありますけどね。
ちなみに、義務教育以外では「退学」という実力行使もあり得ますね。
義務教育(の公立校)では退学はあり得ませんので、それに変わる最終手段が必要=場合によっては体罰もありうるという状況は必要だと思います。
>「実社会に出たってあること」の部分も、上司や警察がいきなり暴力をふるうわけではない(ふるったらそれこそ問題)ですから、体罰の話とは違うと思います。
会社では暴力ではなく「解雇」というのが「最後の切り札」ですね。
警察は暴力がそれに当たります。
両者とも、形は違いますが「最後の切り札」があるわけです。
それには一般人は抵抗できないからこそ言うことを聞くわけですよね。
そういった「最終手段」を持っていない場合は、結局意味を成さない場合も少なくないと思います。
>警察や軍隊が武力を行使するのは、「お前は話し合ってもわからない人間」という認定をするということですから、教育しなきゃいけない立場の人がそんな認定をあっさりしてしまっていいのか、という問題があります。
そういう面はあるとは思います。
ですから、学校教育で最終手段を用いるのはより慎重であるべきだとは思いますよ。
ただし、教育者側が充分に「話し合い」をしているのに、聞く耳を持たない場合は実力行使以外に方法が無いと思います。
そういうケースまでも「体罰は良くない」といった理想論で甘やかしてしまっては付け上がるだけでしょう。
子供は意外と利口(というか適応力がある)ですから、「無視したって結局何も出来ない」ということがわかってしまうと相手をなめてかかるようにもなってしまうとおもいますよ。
>結局、この「人によって」が大事で、個々の子供を見て考えないといないので、一概に体罰が必要とか不要なんて議論も無意味かもしれないのですが
これは同感ですが、私はすべての子供に体罰が必要だとは言っていません。
逆に「体罰は何が何でもすべて禁止」という風潮に異を唱えているだけです。
つまり、「体罰が必要なケースも存在する」ということをわかっていただけるなら、それで意見は一致したと見て良いとおもいます。
投稿: B-51 | 2007年3月 5日 (月) 18時15分
>これは同感ですが、私はすべての子供に体罰が必要だとは言っていません。
逆に「体罰は何が何でもすべて禁止」という風潮に異を唱えているだけです。
つまり、「体罰が必要なケースも存在する」ということをわかっていただけるなら、それで意見は一致したと見て良いとおもいます。
定性的には一致と言っていいかもしれませんが、僕は逆に、行き過ぎた体罰禁止の反動としての「体罰容認・推進」論が広がりつつある流れ(特に父親たちの)を感じていて、そっちに注意が必要だと思っています。本当に体罰が必要なケースは小学校入学時点で恐らく1%以下、生まれた時点にさかのぼればもう1~2桁低いのではないでしょうか(いや、そういう階層は体罰が必要な時点ですでに手遅れという気もします)。普通の子でも一生に一度か二度くらい(犯罪行為をした時など)のレベルの話をしているのでしたら仰るとおりだと思います。
>「絶対である」ことの裏づけには「実力行使」が必要だということです。
罰則規定の無い法律には強制力がほとんど無いのと同じことで、「最終的には」体罰があり得るというのが必要だという意見です。
ここにかなり相違があります。実力行使なんて体罰以外にもいくらでもあると思うのですが…そもそも刑法の罰則にいわゆる「体罰」に相当するものありましたっけ?そういえば死刑はそうですね。体罰論と死刑論は似ていますが、抑止力で見るなら死刑が有効というはっきりしたデータはなかったと思います。懲役刑は子供で言うと物置閉じ込めとかになるのでしょうが、それも体罰だ、けしからん、という風潮への疑問でしたら同感です。
B-51さんのコメントには「叱る」という単語がほとんど出ませんが、教育の話をするならこっちの方が圧倒的に重要で、切っても切れない関係だと思います。叱るスキル次第で体罰が不要なケースでも必要になったり、なめられたりする。前回飛躍と書いたのは、それが抜けているのでは、ということでした。
>ただし、教育者側が充分に「話し合い」をしているのに、聞く耳を持たない場合は実力行使以外に方法が無いと思います。
話し合いをしているつもりだけで、実際には聞く耳を持たないのは教育者側だったりすることも多いと思います。上の子とはトラブルも経験しましたが、悪意があるようにしか見えない言動にもちゃんと根拠があったりして、本当に相手を理解する努力がないと解決できないことも学びました。
投稿: ととちお | 2007年3月 5日 (月) 23時07分
>悪意があるようにしか見えない言動にもちゃんと根拠があったりして、本当に相手を理解する努力がないと解決できないことも
問題点は
学校教師にはそこまでの余裕(御気に召さなければ「能力」と言い換えてもいいでしょう。財界人はノルマを架しても過労死するほど働けとは行っていない(=部下に能力が足りない)とかいっているようですから)が現実的にはないということでしょうか。
両親に関してもそんな教師や親に育てられているわけだからなかなか・・・
では、より大多数の教師でそれだけの余裕を持たせるにはどうすればいいか?親子供教師全てに千差万別ではっきりと線を引けない具象に対し曖昧なラインを引く能力を鍛えさせる事でしょう。
具体的には・・・簡単に思いつく一番近いのは「道徳」の時間の復活でしょうか。
・・・・あんまり好きな結論じゃないな。
道徳というのは、差別を差別として取り扱い易い(もしくはそうしてしまう)ものだし。
まあ曖昧なものに曖昧なラインを引く能力というものがそんなものではあるのですが。
なにより日本人には大戦時代の嫌悪を刷り込まれている事からシビリアンコントロールに生理的に近い嫌悪感をもっているからだろうか?
投稿: z | 2007年3月 6日 (火) 07時53分
>とちちおさん
>行き過ぎた体罰禁止の反動としての「体罰容認・推進」論が広がりつつある流れ(特に父親たちの)を感じていて、そっちに注意が必要だと思っています。
これは同感です。
私も「安直な」体罰には反対です。
あと、戦前型の「根性」で物事を片付けようとする風潮も。
>普通の子でも一生に一度か二度くらい(犯罪行為をした時など)のレベルの話をしているのでしたら仰るとおりだと思います。
小学生(中学年?)以降のある程度「話せば分かる」年齢ならその通りだと思います。
とちちおさんとの決定的な相違は、幼児期の躾に体罰を用いるかどうかっていう部分でしょうかね。
例えば、兄弟や友達と喧嘩になって噛み付いたり凶器を使ったりした場合ですが、当然最初は口頭で言って聞かせる(つまり叱るということ)事を試みますね。
しかし、それでもすぐに(または頻繁に)同じ状況に陥るとしたら、体罰は有効だと思います。
尻を叩くとか、手の甲を叩くなどして、「痛み」を分からせることも重要だと思います。
こういったことを繰り返すことによって、「口頭注意の段階で言うことを聞かないと痛い目にあう」ということも分かりますし、「他人の痛みが想像できる」事にも繋がると思います。
>実力行使なんて体罰以外にもいくらでもあると思うのですが…
もちろん、有効な最終手段/実力行使が別に用意できる状況ならそれでもいいと思いますよ。
体罰に固執する理由は余りありませんから、状況によっては「TVやゲームを一定期間禁止する」「おやつや食事(1回程度なら)抜き」等も有効だと思います。
#押入れなど暗くて狭いところへ閉じ込めるのには反対ですが
>B-51さんのコメントには「叱る」という単語がほとんど出ませんが
意図的に叱るということを回避しているわけではありません。
ただ、個人的に「叱る」という言葉はあまり好きではないので、無意識的に使っていないだけです。
私のコメントでは、「言って聞かせる」「口頭で注意する」等と表現していますが、これはいわゆる「叱る」ということと同義です。
余談ですが、なぜ叱るという言葉が嫌いなのかというと、叱る=声を荒げる=感情的になる=怒る ではないかと言うイメージがあるからです。
感情的になって怒っている状況は、冷静に説教をしているのとは異なり体罰とそう変わりませんので…
>話し合いをしているつもりだけで、実際には聞く耳を持たないのは教育者側だったりすることも多いと思います
同感です。
#叱るという場合これに陥っているケースが多いのです
分かりやすい例で言うと、のび太君のお母さんの説教は明らかにこれに分類されるでしょうね。
のび太自身も「単なる苦痛」だとしか感じていないようですし。
>zさん
>学校教師にはそこまでの余裕…
現状では確かになさそうではありますね。
ただ、少子化で子供が減っているのですから、スクールカウンセラーの導入などでそういった部分をある程度フォローしてゆく必要もあると思います。
また、親に過大な期待をしても、結局問題解決にはならない(親の考え方を変えるのはほぼ不可能なので)でしょう。
そういう意味から、あまりにもひどい場合は親権の剥奪などといった行政処置もやむをえないと思います。(日本はまだこういった部分が甘いと思います)
少なくとも、払えないわけでもないのに給食費を滞納するような親とか、学校の備品を壊した子供を擁護するような親には何らかの処分を課すようなことも必要かもしれませんね。
投稿: b-51 | 2007年3月 6日 (火) 15時05分
しばらくぶりの書き込みで、流れもよく読まずに書きますが…
最近は文科相の発言にもあったように権利メタボが増えて不健康な社会になったように思います。同時に必要である義務の履行を忘れる、というか意識的に避ける人間の増加でしょうか。体罰に付いても触れられていますが、私なぞは親からは拳骨で躾けられた人間ですが、まぁ、別に同じ方法で誰かを躾けようとは思いませんし…そういや、ロープでぐるぐる巻きにされて外に捨てられたなんてのもあったな、うちの兄はその状態で「鼻の頭が痒いから掻いてくれ」と親に頼んだそうですが…あやまれよ。体罰、難しいですね、言い聞かせる、にしても正座させてなら体罰だし、立たせても長ければ…、座らせていても内容の下らない説教を5時間なら充分体罰だし…。
あぁ、何かよく分からない内容になっている。どうも済みません、さらっと聞き流して下さい。
投稿: 嘘つきさん | 2007年3月 6日 (火) 20時26分
まあ、言うことを聞かせるのに何らかの強制力が必要、というのは共有しているようなので。
これ以上は細かい議論なので切り上げますが、理想を言えば、冷静な判断と思考を伴った「感情的に怒鳴っている演技」がベストだと思っています。
>体罰に固執する理由は余りありませんから、状況によっては「TVやゲームを一定期間禁止する」「おやつや食事(1回程度なら)抜き」等も有効だと思います。
僕は好きなのですが、話を戻して「下流志向」ではこういう手法が経済原理の導入として問題視されているようです。(ちょっとそれて)この本では経済原理でない部分の重要性を説いていますが、本当の経済学はそんなのも全部内包していて(解決できてませんが)、今回の内容も市場の失敗というありふれたテーマに過ぎないのではないでしょうか。
>zさん
道徳は別になくなったわけではないですよね。
「余裕」は別に能力と言い換えなくても、1クラスの人数や父親の長時間労働など、改善の余地はあると思います(ちなみに財界人の本音は「過労死する一歩手前まで働け」でしょう)。前者はお金の問題だと思いますが後者は全体がちょっとずつ変わっていかないと解決しない、難しい問題です。
>少なくとも、払えないわけでもないのに給食費を滞納するような親とか、学校の備品を壊した子供を擁護するような親には何らかの処分を課すようなことも必要かもしれませんね。
行政サービスの拒否というのは難しいのでしょうか…
ところで、どうでもよい事ですが、「ととちお」です。
投稿: ととちお | 2007年3月 6日 (火) 23時10分
ととちおさん
>ところで、どうでもよい事ですが、「ととちお」です。
大変失礼しました。
>まあ、言うことを聞かせるのに何らかの強制力が必要、というのは共有しているようなので。
そうですね。
私も言いたいことは大体書いたので。
以下、脱線気味ですが…
>長時間労働
ブラジルなどは、法律で結構厳しく規制していますね。
日本もそれくらいやっても良いと思いますがね。
労働基準法すら抜け穴だらけで、中小以下になるとまともに守っていないところは山ほどあるでしょうからね。
雇用形態について、日本は結構思い切った対策を立てるべき時が来ていると思うのですがね。
>道徳
最近は「水からの伝言」とかいった「似非科学」系の本を道徳教育に使おうとする教師が増えているといった問題もありますね。
それくらいなら、童話や故事を使ったほうが100倍くらいましだと思いますが。
教師と言う職業は、広範囲の知識が求められるものですので、文系であってもある程度の科学リテラシーを持つべきだと思いますが、そういった部分も御座なりになっていますね。
投稿: B-51 | 2007年3月 7日 (水) 10時32分
なんだか、道徳教育の強化を検討し始めているようですね・・・
ソースはURLを失念したのでリンクできませんが。
ここでも指摘されていますが、教師への教育やフォローアップ
教材の選定がまともに行われていないと、多少なりとも効果は
あっても、巻き起こす問題も多そうですね。
純朴に育てば大人から見ればよい子だけれど、だまされやすく
ある意味直情的になるし、
小賢く育てば大人から見れば決して良い子ではない(本当に
賢いと牙を隠しているのでしょうが)
考え方に枠をはめようという授業だから、宗教観、人生観の絡む
問題だけに、ただ強化しろというだけではさまざまな問題を生むか、
前に進まず頓挫しそうな話です。
はめ方ひとつで、教育が全力で下流志向(それが問題なら)を目指すということもありえるだけに・・・
投稿: z | 2007年3月29日 (木) 19時23分